天才コンプレックス(仮)

【編集中】天才コンプレックス(仮)【結】/南出仁

プロボクサー南出仁のサイン 天才コンプレックス(仮)
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夢を叶える為、僕はプロボクサーになった。


ボクシングを始めて約8年。紆余曲折しながら‘真っ直ぐ”一つの夢に向けて進んできた。
世界チャンピオンへの道を。



…まずは逆算した。



あと4年後に僕は世界チャンピオン。
2年で日本チャンピオンだ。
日本チャンピオンになるまでに異例の知名度が欲しい。



”日本一チケットの売れるプロボクサー”



今までにいない自分にしかなれないプロボクサーになる。

僕には’裏の顔’がある。それは超の付く’野心家’の顔だ。

裏でもないか。
承認欲求が強く、向上心の塊。そもそも目立つのが好きで始めたボクシング。なぜか自分に自信がある”最強のマインド”を持っている。


自分が世界の主人公、ステージはまだ日本。これから世界にレベルアップするプレイヤーだ。自分に起こる全ての出来事がサクセスストーリーの一部。

”良い事も悪い事も全ては自分を成長させてくれるイベント。”



この広い地球という星に生まれて何らかの接点を持つ人30000人(人生を80年と考えて一生で出会う人)。同じ学校や職場、近所の人3000人。楽しく会話を持つ人300人。友人と呼べる人30人。親友と呼べる人3人。

…違う。心が求めた人と僕は出会ってきた。



世界チャンピオンになる主人公が道中で出会う人達。出会う全ての人に意味があり、パワーアップさせてくれる僕の物語の登場人物だ。



出会う一人一人に縁を感じられるのはこんな考えからか。



周りの人の物語に僕がどう登場出来るか考えている。



因みに隕石が頭に当たる確率は100億分の1。らしい。



当たったことのある人がいるんだ。人生何があるか分からないから面白い。自分の人生が最強に面白い人生になると信じている。



”そんな大卒22歳の痛い奴”、それがプロボクサーになりたての僕だ。そして、今でも変わらない。
でも、人間そういう部分が少なからずあるもんだ。



たった一度の人生、自分が主役じゃなくてどうする。

「俺根性あるから」「私鼻がよくきくから」「耳めっちゃいいから」「俺猫舌なんだよ」
誰も誰かの根性、鼻、耳、舌で感じたことは無い。

比べられる訳がない。比べる必要もない。


こんなことは書かなくていいというか、書かない方がいいと思ったけど書かせてもらった。


今のSNS時代に’本心’、素の自分なんてさらせる人がどれだけいるだろうか。
作り上げられたカッコいい俺、可愛い私、強い人間、出来る奴、頭良いでしょ僕私。


そうじゃなくて、こんな自伝じみたものぐらい本心でリアルなものを書きたくなった。
普通は自伝だからカッコをつけるのか。これが僕の普通だ。周りが変なだけ。
こいつ面白いな、バカだな、と思って貰えたら幸いだ。



そして今僕はこの「天才コンプレックス」を書いている。自分の心が求めるやりたいことをやる。
今回はプロとなって2年と8ヶ月間の話。
もちろん結果は皆さんご存知、僕は5戦目で’大敗’を喫する。





アマチュアで全日本選手権2位の成績を残し、満を持してプロボクサーとなった。


”プロの世界でチャンピオンになる為に神様がアマチュアでチャンピオンにはさせてくれなかった。”
そんな訳はないけど。
そう思って頑張るしかない。



”…そう思って頑張れる。環境や周りの応援してくれる人達が僕には沢山いる。”



僕はチャンピオンにはなれないと思ってボクシングを続けることは無い。
自分にも応援してくれる方達にも嘘をつきながら続けるつもりはない。



”プロジム選びは、縁を感じたところ。”



そう決めていた。大手のジムに決まりかけていたり、他のジムからも声は掛かっていた。地元和歌山で通っていたジムは和歌山県唯一のプロ加盟ジム。ほんとにお世話になった。



そして僕は千葉県柏市のセレスジムに決めた。大学のコーチの林田太郎氏には信頼を置いていた。その高校時代の同級生である岩佐亮佑選手の所属するジムだ。その繋がりがあり、大学2年生の頃にスパーリングパートナーとしてセレスジムに呼んでいただいた。



初めて触れる「世界レベル」。階級も当時同じバンタム級だった。



国体で準優勝していた僕は例によって自信をつけていた。(お馴染みのパターンだ)



セレスジムのリングは狭かった。(今は移転してリングが広くなった。)
いざ向かい合うと半端じゃない
「プレッシャー」を感じた。



本能的に察知した。
「やばい、や(殺)られる」。



リングの大きさから足を使って逃げるという選択肢は消えた。
そこからは覚えてないというかとにかく必死に立ち向かった。…強い。全く底が見えなかった。



これは後から聞いたけど、何人か呼んでいたスパーリングパートナーの中で真っ向から向かってきたのは僕だけだったと褒めてもらった。



帰り際にセレス会長から”交通費5千円”を頂いた。
その後に美味い焼き肉を岩佐さんからご馳走になった。
岩佐さんはその後イギリスで世界挑戦したが敗れた。



それから2年後に僕も好きだった小國さんを倒して世界チャンピオンとなった。岩佐さんが世界を獲る前にセレスジムに入ることを決めていたけど、確実に世界を獲ると思っていた。



それからまた何度かセレスジムにスパーリングパートナーとして呼んでいただいた。
”頂く交通費が1万円”に上がっていた。



この頃からセレス会長も僕に目を付けていたに違いない。
セレスジムに決めたきっかけはジム選びに迷っていた時、大手ジムに決まりかけていたタイミングで話しがあった。



林田氏「南出、セレスジムどうだ?」
僕「めっちゃいいですね!」
ただの直感だ。でも、ここだ!と思った。



”自分のなりたい自分、目指す自分になるには環境が必要だ。自分で作る、自分でそこに飛び込むしかない。”



僕は直感でセレスジムを選んだ。
大学に進学したのもそうだ。強くなりたかった。人間としても成長したいと思っていた。



セレス会長とOB会長の中島会長は同郷の茨城県。なまり方が少し似ている。
セレス会長は中島会長にも話しをしてくれていた。



「俺が教えたい」



と、僕を評価してくれた。
熱意を感じた。
純粋に嬉しかった。そんな経験今までなかったから。
いざ練習が始まると、会長は何か僕に言いたそうだった…。



僕は僕で大学で鍛えられた人間力で、ジムに入って3日でもう何年もジムにいるベテラン風を吹かしていた。



前からいるジム生も年下は片っ端からいじり倒した。
2.3ヶ月ぐらいすると次第にセレス会長も僕をいじってきた。これで人間関係が生まれるんだから、いじられてなんぼだ。



と、同時に…
セレス会長「仁、何にもできないな(ボクシングが下手くそ)、これでよく全日本準優勝したな」
「俺、びっくりしたよ」
「逆に伸び代だよ」と最後に付け加えてくれた。
言いたかったのはこれだったようだ。



僕はボクシングが下手だった。
アマチュアボクシングとプロボクシングは違う。と、先に言っておく。
今まで僕を指導してくれた人達は何人もチャンピオンを輩出している。



僕にセンスがなかっただけだ。



にしても、びっくりした。こんなにも自分が下手だったということに気付いて。
バンテージの巻き方からセレス会長には指導…怒られた。「そんなんだから怪我すんだよ」
その通りだ。



僕は「言われなきゃ出来ない奴」の典型的なタイプだった
当たり前のことも、細かく(当たり前のこと)指導されてようやく意味を理解して、身につけていった。



「会長!凄い発見しました!」
「なんだよ」
「ここをこうしてこうしたらめっちゃ良くなりました!」
「お前何年ボクシングやってんだよ」
「え、そうなんですか?」
当たり前のことに気付くのが遅い。
伸び代が沢山あるんだ…。



柏に来てからは一人暮らし、社会人となった。



”人生初の仕事を経験する。”



8時間の拘束時間。社会人の先輩方、日本で働く全ての人にリスペクトを送ります。



僕が勤めたのは、ジムの後援会の方の「四季の丘高齢者住宅」だ訪問介護という、おじいちゃんおばあちゃんの家に行って介護をする。


そのおじいちゃんおばあちゃんの住むアパートの一室に僕も住むことになった。とても綺麗で住みやすかった。



孫のように可愛がってくれる人、話すと止まらなくなる人、病気の後遺症から声の出なくなったコジマさんは人間の鏡のような人だった。もう90近かったけどいつ行っても部屋は整理整頓され、とても綺麗。いつもこんな若造の僕にも丁寧にお礼をしてくれた。子供や孫がよく遊びに来ていた。



人間何を積み重ねるのか、高齢になればなるほどよく見えてくる。



病院の送迎などをしていたが、運転下手でごめんね。怖かったと思う。他にも認知症の方と散歩にもよく出掛けた。よく勉強になった。



飼っていたイヌのシロは賢くて僕の癒しだった。何人か僕の試合も観に来てくれた。
何のことかよく分かってない感じだったけど。



今ではコロナがあるせいで施設に挨拶にも行けていない。
施設で働く先輩のシラキさんやコウノさんにはとてもお世話になった。仕事をした事のない自分にも優しくしてくれて今でも試合の応援にも来てくれている。施設長の三浦さんありがとうございました。



それから半年ほど働き施設の事情で、”トキタ工務店”という今でも自分が働く工務店に転職することになった。



工務店が何なのかすら知らなかった。
新築の家を建てたり、リフォーム、修理、何でもやっていた。
夏は暑いし、重い材料も運ぶ。冬は寒いし、手や腰が痛くなる。大変な仕事だ。



職人の先輩や現場監督の先輩達を尊敬している。



僕はボクシングしか出来ない。
デビューから3戦連続KO勝ち。
完全に僕は調子に乗っていた。良い意味でも悪い意味でも。



4戦目では日本ランカーにケンカを売った。
山中慎介プレゼンツ、ゴッズレフトトーナメントに出場を決めた。



会長から話しがあった時は「これだ!」と思った。即答で出場を決めた。
初めに言ったように、2年で日本チャンピオン…。



”何か一気にステップアップするチャンスがあるはずだ、無ければ自分で作るしかないと思っていた。”



このトーナメントで優勝すれば日本ランク上位、すぐにチャンピオンを引きずり出してやる、そんなことを考えていた。



一回戦で1番ランキングの高い、荒木選手と戦いたかった。理由は手っ取り早くランキングを手に入れてトーナメントで勝ち上がれば更にランキングを上げられると思ったからだ。



対戦相手の決め方は、山中さんがクジを引いて引かれた人の順番でトーナメントの山に自分で名前を付けるやり方だった。



このやり方ならほとんどの確率で荒木選手と戦えると思った。



3番目ぐらいに僕の名前が呼ばれた。
そして、「荒木選手とやりたいな〜」
と言ってトーナメント表に名前を付けた。



後から呼ばれた荒木選手は逃げるわけにはいかない。僕は当時3戦しかしていない、一番キャリアの浅い選手。
僕の思惑通り荒木選手は僕の対戦を引き受けてくれた。




当時、荒木選手は14勝1敗1分。バンタム級のユース王者にもなっていた。



それでも当然、僕はこのトーナメントで優勝する自信があったから相手は関係ない。



結果は判定勝ちだった。
途中、目の上をカットしたが僕は嘘みたいに冷静だった。
3R目の途中でカットした。
これが相手のパンチによるヒッティングと判定された。作戦を変更した。



「時間をかけてカウンターを狙おう」
4R目は前に出なかった。
5R目に入れば観客も盛り上がってるし、止められないだろう、と考えながらレフェリーの位置も確認しながら戦っていた。
「この位置ならレフェリーは血が流れてるのは見えない」



最終ラウンドはお構いなしに打ち合った。
かなり盛り上がったし楽しかった。



”同時に自分の実力の無さも感じていた…。”



対戦を引き受けてくれた荒木選手に感謝したい。思っていた以上に強かったし、絶対に良い人だと思う。殴り合うと分かることもある。
やはり戦績やユース王者の肩書きは伊達ではなかった。



この頃から自分の歯車の狂いに違和感を感じ始めていた。



3戦目で1R.KO勝ちを目指していたが3Rかかった。4戦目ではディフェンスに定評のある選手をKO。出来なかった。
どちらも思い通りにいかなかった。
気付くべきだった。



”僕は同じ失敗をしていた。”



沢山練習したことに満足していた。
仕事がある中でも頑張って練習した、と…。
もちろん大学での失敗の経験から練習内容はよく考えてやっていた。
それでも考え方やマインドの部分で狂いがあった。
(天才コンプレックス「転」後編 参照)



そして、5戦目で僕は大敗を喫する。



拳の怪我や焦り、メンタル面の弱さが全面に出ていた。※拳の怪我に関しては試合の内容に一切関係ない。僕の調子は良かったし、身体もキレていた。
それに中嶋選手のパンチ力も予想以上だった。
完全に準備不足だった。技術面も精神面も。



”自分の進んできた道を忘れてはいけない。
同じミスは絶対にしてはいけない。
肝に銘じた。”



そしてこのトーナメントに出場して良かったと思っている。結果は僕の「負け」。



これは”見える”結果だ。



僕は目標通り、一気にステップアップした。ボクサーとしても人間としても。
確実に成長させてくれた。トーナメントの開催と出場させてくれたジムにも感謝している。



ものごとは見かけとは違う。



1週間落ち込んだが、沢山の人が支えてくれたおかげでなんとか立ち直れた。LINE等でのメッセージや電話、前向きな言葉を掛けてくれた方達に感謝している。
”それでもプライドはへし折られていた。”
それにボクサーという選手としての「価値」も下がってしまったなと感じた。



でも、負けてから僕は沢山の人と”出会う”ようになっていった。



何となくそう思う。



そんな時。嫁さん(当時はまだ結婚していない)は、僕の試合を見たことがなかった。5戦目も見ていない。動画を見せても30秒ぐらいで他の話しをしてしまうから見ていない。
興味がないみたいだ。身体の心配だけはしてくれています。誤解のないように。



負けてすぐの当時はショックで連絡もしなかった。少し時間が経ってご飯を食べに行った時だ。
「今日はいつもとちょっと違うね」
と言われた。
僕「なにが?」
「昔と変わった、優しくないしおもしろいもないね」
僕「負けたから…」
「私に何か関係ありますか」。



……………ふと、我に帰れた。



彼女にも慰めて欲しかったのか、悲劇のヒロインにでもなっていたのか。
試合に負けた。それだけだ。
堂々とすれば良い。
調子に乗っていた部分を改めて、足りない技術を身につけよう。
僕は前を向いた。
それからすぐに拳の手術を受けた。



希望のあるところには必ず試練があるものだ。



左拳は脱臼癖が付いて試合前や疲れが溜まると痛めていた。



”よしなり鍼灸接骨院の吉田先生”にはずっとお世話になっている。試合前に痛めてしまった時は休みの日に接骨院を開けて鍼の治療をしてくれた。僕は沢山の人に支えられている。



そして手術が終わると退院してすぐ次の日から仕事に復帰した。
片手で車の運転をして、出来る事をやった。働かせてくれた会社に感謝している。



”人間、とにかく行動が大事だ。
暗い部屋に閉じこもっていては何も変わらない。
外に出て太陽の光を浴びて活動しなくては何も始まらない。”



普段と変わらない生活のおかげで僕は早く立ち直ることができた。



それからは相変わらず”プロボクサー”を続けようと思った。試合が出来なくてもプロボクサーだ。胸を張った。



まずは何となくブログを始めた。



とりあえず、1人でもファンがいるなら近況報告も出来るかなぐらいの考えだった。
それから知り合いのボクシング教室に顔を出した。



そこで知り合った”メンタルトレーナーの中嶋 進先生は自身もビーチテニス日本代表”を経験していた。今でもお世話になっている。



(オンラインでも指導して頂いてる)
メンタルトレーニングが僕のようなバカにいかに大切かを教えてくれた。確実に僕は強くなっている。幻想ではないと言い切る。



キッズボクサー達の合宿にもコーチとして参加させてもらった。
子供達の”エネルギー”には、まだまだ若いはずの自分にも刺激となった。



皆んな上手くて強い。将来のチャンピオン達だ。
もちろん、自分も出来るトレーニングを続けた。



”そうこうしていると日本にコロナがやってきた。”



僕には全く関係ない話しだ、と興味もなかった。自分の出来ることをする。
”プロボクサー”として活動を続けよう。



メンタルトレーニングにロードワークを続けた。ブログを書きながら…。
そして100キロマラソンにチャレンジした。
試合が出来ない代わりに何か出来ないか…
プロボクサーとして…



僕の思考では100キロマラソンとなった。

”それから私生活も見直すようになった。”


1人暮らしで仕事をしながらボクシングをするキャパシティが僕にはなかった。
試合前は家の中がめちゃくちゃだ。
ご飯も作りたくないし洗濯物も畳みたくない。
掃除もしたくない。
嫁さんは家に来ては、言葉を失っていた。
(嫁さんは少し潔癖症だと思う。)



心にも余裕がなかった。
全てボクシングに投影される。
最後まできちんとやらない部分や部屋の汚さが、雑なボクシングを産んでいた。
スピード重視で丁寧さに欠ける行動も全てボクシングにも表れていた。
スピードはあるがガードが甘く、打ち終わりに被弾していた。



人間、あらゆることの”積み重ね”が大事だ。



嫁さんに怒られながら毎日特訓のように私生活を見直した。
自分で出来るようになるか結婚してパートナーを見つけるかだ。
こんな言い方をすると確実に大バッシングを受けるか。



色んなタイミングがあったんだ。
今しかない、彼女しかないなと。
そもそも1k1部屋6畳程、手取り17万円程(僕は少ないとも思ってない)(会社に対して失礼かもしれないので弁解しておく。僕は建築の知識は一切ない。だから僕なんか邪魔なだけだ。それでも働かせて頂けてるだけでほんとに感謝している。今では大きめの工事の現場監督もやらせてもらってる。難しいから色んな勉強にもなっている。感謝しかない。)で試合も出来ない。



貯金もそんなにしてなかったから手術代とリハビリ代でほとんどなくなった。
ちなみに奨学金480万円の借金もある。
僕はほんとに全く何とも思ってないし、恥ずかしくもないからわざわざブログで書ける。
だって皆んなそうだろ。
だからこんな奴と結婚する物好きは彼女ぐらいだ。ほんとに感謝している。幸せにしないとバチが当たるだろう。



事実、プロボクサーの結婚は早いように感じる。井上尚弥選手や長谷川穂積選手も22.3歳ぐらいで結婚している。多分何も出来ないタイプだったはずだ。笑
適当な事を言ってすみません。もしファンの方に読まれたら怒られますね。



そんなこんなで今に至る。
コロナは僕のせいで日本に来たのかもしれない。(また最強のマインドが働いてる)
ランキングは下がるどころか何故かアップしている。お金も使わずに済んだ。
そして、これぐらいコロナ禍を有意義に過ごした。
(親族や身内でお亡くなりになられた方や仕事に影響の出ている方々に対して不謹慎なのは分かってる。ボクシングだって今まで通りにはいかない。でも僕も人生を賭けて生きてるから。コロナなんて”強くなる”為の一つのイベントに過ぎない。)



そうだ、僕のキャンパスはどうなっただろうか。



色濃く、より陰影がついてきたかな。



暗い部分は、より明るさを際立たせる。



全ては表裏一体だ。



面白くなってきた。



そして何となく始めたブログが今こうなっている。
25歳、2021年1月5日。
もちろん完結は出来ない。
まだまだ僕のストーリーは続いていく。
その時また書こうと思ってる。



そして、いっちばん初めの前書きで言わせてもらったがこれは僕が”紙の”本を書く為の練習だ。
お付き合い頂いた皆さんありがとう。
出版したら買ってください!
めちゃくちゃ喜びます。
そしてこの「天才コンプレックス」を機に僕の名前を知ってくれた方達には是非、僕のSNSをフォローして欲しい。Twitter、Instagram、Facebook全て「南出仁」で登録している。



とんでもない所を目指しています。